「自分一人が投票しても、選挙結果は変わらない」
そう考えて、選挙へ行かない人は少なくありません。
しかし、投票しないことは政治的に中立な行為ではありません。選挙結果は、実際に投票した人の票だけで決まります。投票に行かない人が増えるほど、組織的に投票する団体や固定支持層の票が、投票総数に占める割合は相対的に高くなります。
一票だけで当落を変える可能性は小さくても、誰が投票へ行き、誰が棄権するかによって、政治家が優先して向き合う相手は変わります。低投票率が続けば、人数では少数であっても、確実に声を上げ、組織的に投票する人々が、人数以上の政治的影響力を持ちやすくなります。
この記事では、低投票率が組織票や職業政治家を有利にする仕組み、団体の「代表意見」が構成員全体の意思から離れる危険、そしてサイレントマジョリティーが投票によって意思を示す必要性について考えます。
誰に投票するかを考える前に、まず、投票しないことが誰を相対的に有利にするのかを考えてみましょう。
Contents
投票しないことは中立ではない
「自分が一票を投じたところで、何も変わらない」
そう感じること自体は理解できます。国政選挙では何千万票もの票が動くため、自分の一票だけで結果が決まることは、ほとんどありません。
しかし、だからといって投票しないことに影響がないわけではありません。
現在の選挙制度では、棄権した人の意思は、選挙結果には反映されません。棄権を一つの政治的意思として集計する仕組みではなく、投じられた票だけで議席が決まります。
民主主義は単なる多数決だけではありませんが、少なくとも選挙においては、実際に投票した人の票が結果を決めます。
投票しなかった人は、政治的に中立な位置へ退くのではありません。
結果として、確実に投票する人へ、自分の分の決定権を相対的に譲ることになります。
私は現在の日本の選挙制度そのものにも懐疑的です。詳細はこちらのページに記載しました。
しかし、現在の制度がどうであれ、その制度の中で投票しなければ、自分の意思が議席配分へ反映されないことだけは確かです。
低投票率では組織票の比重が高くなる
低投票率で直接的に力を増すのは、組織票や固定票です。
たとえば、ある候補者を必ず支持する1万票の組織票があるとします。
投票総数が10万票なら、その1万票は全体の10%です。しかし、投票総数が5万票まで減れば、同じ1万票が全体の20%になります。
組織票そのものが増えたわけではありません。
投票へ行かない人が増えた結果、組織票の比率が上がったのです。
業界団体、労働組合、宗教団体、その他の利益集団など、構成員を選挙へ動員できる組織は、投票率が低いほど相対的に有利になります。
そのため、組織票へ依存する政治家にとっては、必ずしも国民全体から広く支持を得る必要がありません。自分を確実に当選させてくれる集団の要望へ応える方が、選挙戦略として合理的になります。
無関心な多数派が投票しなければ、政治家はその人たちの声を聞く必要を感じなくなります。
投票しない人は、選挙のときに自分を落とすことも、当選させることもないからです。
誰かが企てなくても、低投票率は政治家を変える
低投票率について考える際、必ずしも「政治家が裏で投票率を下げようと企んでいる」という陰謀を想定する必要はありません。
政治家が、確実に票を投じてくれる人を優先するのは、選挙制度の中では自然な行動です。
反対に、選挙へ行かない人が何を望み、何に困り、どの政策へ反対しているのかは、政治家から見えにくくなります。
2025年の参議院選挙は、三連休の中日に当たる7月20日に投開票されました。この日程について、投票率を下げる意図があったのではないかと見る人もいました。
ただし、そのような意図があったと断定できる根拠を、『理屈コネ太郎』は確認していません。
重要なのは、誰かが意図的に投票率を下げたかどうかではありません。
低投票率になれば、組織票や固定票の相対的な価値が上がり、政治家がそれらに依存しやすくなるという構造は、誰かが裏で企てなくても成立します。
組織票とノイジーマイノリティーは同じではない
ここで、組織票とノイジーマイノリティーを分けて考える必要があります。
組織票とは、選挙で一定の方向へまとまって投じられる票です。
一方、ノイジーマイノリティーとは、人数としては少数でも、
- 継続的に政治家へ要望する
- 署名や請願を行う
- メディアやSNSで発信する
- 政策案や資料を用意する
- 団体として行政や議会へ働きかける
といった活動によって、議題設定へ強い影響を与える人々です。
少数者が声を上げること自体が悪いわけではありません。少数者の権利が、多数決だけで踏みにじられてはならないのも当然です。
しかし、声を上げる少数者ばかりが政治家へ接触し、多数者が沈黙していれば、政治家が少数者の問題意識を社会全体の要求だと受け取る可能性があります。
さらに、利益を得る人が少数で、その利益が大きい一方、費用を負担する人が多数で、一人当たりの負担が小さい政策では、受益者の方がはるかに熱心に活動します。
負担する側は、
「数百円や数千円なら仕方がない」
と沈黙しがちです。
しかし、その小さな負担が何千万人分も集まれば、巨額の公費になります。
声の大きな少数者が必ず勝つのではありません。
沈黙する多数者が、少数者へ政治的な空間を明け渡しているのです。
今、議論されているのは本当に喫緊の課題なのか
たとえば国会では、選択的夫婦別姓やLGBTQに関する問題が大きく取り上げられてきました。
これらの問題を議論すること自体が悪いと言っているのではありません。当事者にとって重要な問題であることも理解できます。
しかし、国会の時間、官僚の人員、予算、政治家の注意力は有限です。
何かを優先して議論すれば、別の何かへ割ける時間は減ります。
現代日本には、
- 少子高齢化と人口減少
- 長期にわたる経済停滞
- 高い税負担と社会保険料負担
- 近隣諸国による軍事的・領土的圧力
- 日本海へ向けてミサイル発射を繰り返す国への対応
- エネルギーと食料の安全保障
- 外国人労働者や移住者の受け入れ拡大に伴う、賃金、住宅、教育、社会保障、地域統合などの制度設計
といった問題があります。
政策の優先順位は、単に声の大きさで決めるべきではありません。
影響を受ける人数、生命や安全への影響、財政規模、対応を遅らせた場合の損失、問題の不可逆性などを比較して決めるべきです。
その基準で考えたとき、現在の国会で大きく扱われている議題が、本当に日本全体の喫緊の課題なのか。
『理屈コネ太郎』は、そこに疑問を感じています。
職業政治家は、誰の要望に応えるのか
政治家を、理想や信念だけで行動する特別な人間だと考えない方がよいでしょう。
多くの政治家は、選挙で当選し、議員という職業を続ける必要があります。
言ってみれば、立法府へ就職した高給取りのサラリーマンです。
その政治家を当選させるのが、業界団体、労働組合、宗教団体などの組織票であれば、政治家がそれらの団体の要望へ耳を傾けるのは当然です。
問題は、団体が政治家へ意見を伝えることではありません。
特定の団体への依存が強くなり、その団体の利益や信条が、国民全体の利益であるかのように扱われることです。
しかも、その政策を実施する費用は、政治家や支持団体だけが負担するのではありません。
私たちが納めた税金や社会保険料によって支払われます。
組織票を持つ集団が利益を得て、その費用を声の小さな多数者が広く薄く負担する。
この構造が積み重なれば、国民負担は増えても、国民全体の生活は豊かになりません。
経団連や労働組合の「代表意見」は誰の声か
同じ問題は、経済団体や労働組合にもあります。
経団連や連合などの大規模団体は、政策について政府へ意見を表明します。選択的夫婦別姓についても、導入を求める提言や活動を行っています。
組織が政策意見を持つこと自体には、何の問題もありません。
しかし、その意見は、
- どのような手続きで決まったのか
- 構成員のどの範囲へ意見を聞いたのか
- 賛成意見と反対意見をどのように扱ったのか
- 一部の役員や担当者の価値観に偏っていないか
を、外部から検証できる必要があります。
経団連の意見が、すべての会員企業とその従業員の意見であるとは限りません。
連合の意見が、すべての労働組合員の意見であるとも限りません。
大きな組織の名義で発表された意見が、自動的に構成員全体の意思になるわけではないのです。
本来、代表意見とは、構成員の意見を丁寧に集約し、異論の存在も含めて形成されるべきものです。
それが、声の大きい少数者の個人的な理想を実現するためのプラットフォームになっているなら、構成員自身が異議を唱える必要があります。
「海外では」という論法は、条件まで比較すべきである
政策議論では、
「米国では」
「欧州では」
「世界では」
という説明が頻繁に使われます。
海外の制度を参考にすること自体は有用です。
しかし、制度の名称だけを取り出し、日本へ移植できると考えるのは危険です。
同じ名称の制度でも、
- 歴史
- 法体系
- 家族制度
- 宗教
- 税制
- 社会保障
- 移民の構成
- 国民の合意形成
- 行政の執行能力
が違えば、実際の機能も結果も変わります。
海外事例を持ち出すなら、その制度がどのような背景で導入され、どのような問題が起き、誰が費用を負担しているのかまで調べる必要があります。
ここでいう「意識高い系」とは、社会問題へ関心を持つ人一般のことではありません。
海外の標語や抽象的な正義を十分に検証せず、日本の事情へそのまま当てはめ、自分の価値観を社会全体の代表意見であるかのように扱う態度を指しています。
「海外では行われている」というだけでは、日本でも採用すべき理由にはなりません。
「日本を変えたい」という言葉への疑問
政治家や活動家は、しばしば「日本を変えたい」と言います。
しかし、
- 日本の何が問題なのか
- なぜそれを変える必要があるのか
- 何へ変えるのか
- 変えた結果、誰が利益を得て、誰が負担するのか
- 失敗した場合に元へ戻せるのか
が明確でなければ、「変えたい」という言葉にはほとんど意味がありません。
1億人以上の人々が共有し、長い時間をかけて形成してきた文化、慣習、制度を変えるなら、それに相応する知識と説明責任が必要です。
日本の歴史や制度を十分に知らず、どこかで聞いた理念を寄せ集めただけの人に、日本を好き勝手に変えられるのは迷惑です。
変えることは、常に善ではありません。
維持することも、立派な政治的判断です。
「変えるな」と言う権利も民主主義の一部である
「日本を変えたい」という人に対して、
「その変え方には反対です」
「私たちの都合を無視して変えないでください」
「変えるとしても、あなたの案ではありません」
と言う権利が、国民にはあります。
しかし、その意思を政治家へ伝えなければ、存在しないものとして扱われます。
SNSで不満を書くだけでは、政治家を落選させることはできません。
組織票や動員票に対して最も穏やかに対抗できる方法は、選挙へ行き、自分の一票を投じることです。
誰に投票するかは、それぞれが決めればよい。
すべての考えが自分と一致する候補者など、まずいません。その中で、自分の考えに最も近い候補者、あるいは最も問題が少ないと考える候補者を選ぶしかありません。
投票する人が増えれば、組織票が消えるわけではありません。
しかし、投票総数に占める組織票の比率を下げることはできます。
政治家に、
「組織票だけを見ていれば当選できるわけではない」
と思わせることができます。
民主主義の宿痾に、沈黙で加担してはいけない
ノイジーマイノリティーは、民主主義の宿痾です。
自分の正義を確信し、政治的に活発に行動する少数者は、どの社会にも存在します。それ自体をなくすことはできませんし、なくすべきでもありません。
問題は、サイレントマジョリティーがサイレントのままでいることです。
多数者が沈黙すれば、政治家に見えるのは、継続的に声を上げ、投票し、要望を伝える人々だけになります。
その結果、私たちが納めた税金や社会保険料が、私たちの生活、安全、将来よりも、組織化された一部の要求へ優先的に使われる可能性があります。
行政や社会保障は、まず日本国民の生活と安全を基準として設計されるべきです。そのうえで、誰をどこまで支援し、誰がどの費用を負担するのかを、透明に説明する必要があります。
投票しないという沈黙は、思いのほか高くつきます。
あなたの一票だけで、日本全体が突然変わるわけではありません。
しかし、あなたが投票へ行かないことによって、確実に投票する人の一票は相対的に重くなります。
だから、次の選挙には行ってください。
誰へ投票してもかまいません。
ただし、候補者が何をしてきたのか、どの団体に支えられ、誰の要望へ応えてきたのかは、できる限り確認した方がよいでしょう。
なお、『理屈コネ太郎』個人は、20年以上にわたって国政へ関わってきた政治家には、現在の日本の経済停滞や高い国民負担について、特に重い説明責任があると考えています。
長く政治家をしているというだけで不適格とは言いません。
しかし、長く権限を持ってきた人ほど、現在の結果に対して問われる責任も重いはずです。
投票しないことは、何も選ばないことではありません。
自分以外の誰かに、選択を委ねることです。
それでも「自分一人では何も変わらない」と思うのなら、声の大きな誰かの都合でこの国が変えられていくのを、ただ見ていることになります。
ですから、とにかく投票へ行った方が良いです。自分自身のため、家族のため。